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浅見貴子展/M.Y. Art Prospects

展評『artcritical.com』 http://artcritical.com、 2009年 6月

ジョナサン・グッドマン

浅見貴子は植物の葉に魅せられ、何年にも渡って、松、竹、梅、楓の木々の本質を捉えてきた。1964年、日本に生まれた作家は、一貫して木々を表現し続けてきた。植物を水墨画の凝縮された美へと仕上げるのだ。本展には、大型、中型の作品12点が展示されている。時間をかけて観れば、浅見の表現が実際の自然の風景を描いたものだということがわかってくる。しかし、墨の円い斑点が密集する作品は抽象絵画とみなすこともできるから面白い。本展図録に寄稿した短いながらも鋭いエッセイで、由本みどり(キュレーター/大学教授)が指摘するように、浅見の絵画に見られる効果には、グリッドを用いて目を見張るような美を作り出したモンドリアンやアグネス・マーティンのような欧米のアーティストに通じるものがある。それと同様に、浅見の点と線を用いた表現方法からは、ひとりの画家がどのようにして分かりやすいシステムを作り出して視覚的成果をあげるのかを見てとれる。浅見の作品を観る者は自然がもたらす有機的な構造を理解することができるのだ。

確かに、ほかの様式に対してオープンであるのは浅見の作品の一番の魅力だ。最近のニューヨークとヴァーモントでのレジデンスで受けた様々な影響は、作品に明確な変化として現れてはいない。しかし、浅見の絵画は全般的に、自然の具体性と抽象理想主義とを意識的に結合しようとしている。つまり、浅見が必ずしも自国文化のものではない偉業や遺産の価値を認識していることを表す。欧米のアートがアジア現代美術に影響を及ぼすというとめどもない主張は、いまでは少々古くさい感じがするが、浅見の水墨画をふた通りに解釈するとその主張も生きてくる。彼女の仕事を日本の水墨画の偉大なる伝統に属するものと解釈するのは簡単だが、浅見の作品が文化の違いを超えた表現としても容易に成立するのも事実だ。欧米での抽象化の展開があったからこそ、そのような文化を超えた表現が力強く効果的なのだ。様々な文化が入り混じる時代には特に、折衷主義が美学として成立し続けるのだということを、浅見の絵画は我々に教えてくれる。

浅見の使うテクニックは独特だ。東京の北にあるスタジオで、浅見は墨を使って大小の点と線を吸収性の高い麻紙の裏側に描き、墨を部分的に紙の表側に浸透させて、木の葉に似た円い斑点をちりばめた表現法を作り上げる。技術力と自然への厳密過ぎない忠実さが目を引く構図には、無秩序なエネルギーと形態的なバランスが入り混じり、墨で描かれた形の織り成す効果が際立っている。抽象表現主義の画面全体に及ぶ構図を髣髴とさせる制作において、浅見は遠近感を特定することを拒み、画面いっぱいに描かれた対象に活力を吹き込む。そのことは122×183 cmの『Pine Trees』(2008年)の目を見張るような効果に明らかだ。中には握りこぶしほどの大きさのものもある墨の点は、砕け、衝突して、風と光の中の木々の触感を暗示している。灰色の斑点もあれば漆黒の斑点もある。作家は整然と点の列を描き、細いラインでつなぐ。

概念的というよりむしろ描写的な浅見の作品を体験できるのは喜ばしい。ニューヨークの芸術文化では知性偏重が支配的になっているが、ほかのもの、より現象論的なアートも入り込む余地がある。きわめて日本的な作品の部類に入る、『Take 8』(2006年)は、掛け軸のように縦長に掛けられている。長いストライプから垂れ下がる点で構成される160 x 48 cmの作品には非常に伝統的な趣がある。先のとがった細い笹の葉が白抜きで描かれており、わずかに黄色みを帯びている。滝のように下方に落ちる笹の葉を見ると、作家が主題と一体になっている感覚を覚える。非常に興味深い要素のひとつに浅見の引き算的な表現力がある。彼女の技術からは、表現の詩的厳密さを優先して作品から自己を消そうという意思が読み取れる。だからこそ彼女の作品は視覚的に人を引き付けるだけでなく、精神的にも強く訴えるのだ。

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