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美術:クリスティアーネ・レーア展/浅見貴子展: 巧みに作り直された自然

展評、毎日新聞 2007年6月19日 東京夕刊

三田晴夫

植物やその生態とかかわる作品がふえたのは、20世紀後半以後の美術を特徴づける現象の一つといえるだろう。そこではモダニズムへの反省からか、植物やその生態はマテリアル(素材)としてだけでなく、人為の対抗概念としての自然という指示記号の役割も多く担っていた。だからといって、そのすべてが自然へのオマージュ的叙述に終始しているわけではない。

たとえば、日本初個展を開いたドイツのクリスティアーネ・レーア(1965年生まれ)や、浅見(あざみ)貴子(64年生まれ)はどうか。なるほどレーアは植物の種子や茎などを使って造形を行い、浅見は日本画材で樹木図の連作を描いている。しかし、結果としての両者の作品をみれば、自然はあくまで表現を運ぶ船であって、表現されるべき意味対象ではないのがよくわかる。

まず、レーアの方から入ってみよう。床にしつらえられた大きな白い矩形(くけい)のステージに並ぶのは、ちょっと息を吹き掛けただけでも壊れてしまいそうな、繊細な作りのものたちだ。いずれも小さな植物の茎をいくつもからみ合わせたオブジェで、多くがドーム状の構造を呈しているのが際立つ。茎が筋骨なら、そこから突き出た枝葉の群れは半透明の外壁というべきか。

このように植物の形態の法則性から導かれた愛らしい建築的構造体とは別に、タンポポの種子を透明な箱内に集積したり、おびただしいアザミの種子をナイロンネットに引っ掛けて、逆円すい状に天井からつるした大作もある。当然これらは見えない重力に形を与えているとしても、やわらかい綿毛の群れが、まるでロウの塊のような、ずしりとした物量感をみなぎらせているのは不思議である。

対して浅見の画面では、反復される大小さまざまの楕円(だえん)群が葉で、縦横斜めに延びていく線が枝だと名指せないこともない。逆に樹木=自然の叙述は、まさにこの名指せなくもない程度にとどまっているといっても同じだろう。それよりも視線と意識を連れ去るのは、墨(黒)と胡粉(ごふん)(白)のモノクロームが織り成す多彩な濃淡の変化であり、楽譜にも似た楕円形の反復が描き出すリズミカルな動きであり、単純そうに見えて実は入り組んだ画面の仕組みにほかなるまい。

楕円と線形のみならず、墨と胡粉もまた、上になり下になりしながら、そこに層と起伏を織り込んでいく。図像のリズミカルな反復が見る者を水平方向の広がりに誘うとすれば、上になり下になりの層構造は、視線に絶えず入れ替わる進退感を呼び覚ましてやむことがない。まるで墨のすき間から、まばゆい白光が次々とあふれ出してくるようなダイナミックな進退感を。それはもはや、自然の法則にも束縛されないような時空間といえよう。

浅見展:6月24日まで、同渋谷区猿楽町29、アートフロントギャラリー(03・3476・4868)

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